第8章 彼女はこんなにいい心を持っているの?
「起きて」
橘結衣は冷ややかに言い放った。声には容赦のなさと苛立ちが滲んでいる。
橘結衣には分かっていた。橘晴美が何を狙っているのか。
わざと転んで、そこへ橘由樹が駆け込んできたら、曖昧な言い方で適当にまくし立てる。まるで橘結衣が故意に足を引っかけたかのように見せかけるつもりだ。
そうなれば橘由樹は頭ごなしに怒鳴り散らす。橘礼子が帰ってきて事情を聞けば、「腹黒い」とまで決めつけて叱る。
前の人生で、橘晴美が何度も何度も繰り返してきた手口。
橘晴美はその一声に怯えたように肩を震わせ、慌てて橘結衣の胸元から身を起こした。乱れた服と髪を手早く整える。
「どうしたんだ?」橘由樹が橘晴美を見た。「橘結衣がまたお前をいじめたのか?」
橘晴美は唇をきゅっと結び、何も言えなかった。どう答えていいか分からない。気まずさだけが喉に詰まる。
転べると思ったのに、橘結衣の反応があまりにも速かった。
「さっき晴美、転びそうになったの」
橘結衣は平然と橘晴美を見つめたまま、風よりも低い声で言う。
「……そうでしょ?」
なぜだか、その声音を聞いただけで背筋がひやりとした。
橘晴美は唇を噛み、こくりと頷く。
「うん。由樹兄さん、さっき私、転びそうになって……姉ちゃんが支えてくれたの」
橘由樹は信じられないという顔で眉をひそめた。
「……あいつが? そんな親切なことするか?」
橘結衣は薄く笑って立ち上がる。
「なに。あんたが晴美に優しくするのはよくて、私が優しくしたらダメ?」
「忘れないで。晴美は私の妹でもあるんだから」
橘由樹は橘結衣を値踏みするように見て、ふんと鼻を鳴らした。
「分かってるじゃねえか。これからは晴美にもっとよくしろよ。俺だって、晴美の顔を立ててやるぶん、お前のことも少しは見てやる」
「もちろん」
橘結衣は橘晴美を一瞥する。
「晴美、次から気をつけて。顔に傷でも残したり、脚でも折ったりしたら大変でしょ」
橘晴美はぎゅっと掌を握りしめ、無理やり笑みを作った。
「ありがとう、姉ちゃん。気をつけ、気をつけるね」
橘由樹は床に散らばった化粧品と服を見て、しゃがみ込んで拾い始めた。
「晴美、こういうの、古いの混じってるな。今日はデパートに連れてってやる。好きなの、買い直そう」
橘晴美はようやく気分が持ち直し、にこっと笑う。
「うん。ありがとう、由樹兄さん」
それから、いかにも気遣うふりをして言った。
「由樹兄さん、姉ちゃんも一緒に連れていこうよ」
橘由樹は即座に眉を寄せ、露骨に嫌そうな顔になる。
「なんでだよ。俺たち二人でいいだろ」
「由樹兄さん、姉ちゃんもあなたの妹だよ」
橘晴美は口を尖らせて甘える。
「連れてって。姉ちゃんが戻ってきてから、私たちと一緒にデパート行ったことないんだし」
橘由樹は橘結衣を睨みつけた。
「晴美の顔を立ててやる。せっかくだし、慈悲で連れてってやるから、世間ってものを見てこい」
橘結衣は一度だけ彼を見て、異議もなく短く返す。
「……うん」
前の人生でも、今日、彼らと一緒にデパートへ行った。
そして運が悪いことに、橘由樹と橘晴美の分のミルクティーを買いに行ったとき、エレベーターの故障に巻き込まれた。別の女の子と二人、箱の中に閉じ込められてしまったのだ。
その子が、宮本茜。
宮本茜は生まれつき体が弱く、先天性の心臓病を抱えていた。恐怖で刺激され、胸が締めつけられるようになり、呼吸まで苦しくなる。
橘結衣は必死に宥めた。
閉じ込められていたのは四十分以上。
それから二人は、いわば生死を分け合った仲になった。
のちに橘結衣が華南高校へ進学したとき、学校で宮本茜と再会し、気がつけば親友になっていた。
今世なら、エレベーターの故障そのものは避けられるかもしれない。だが宮本茜は、事故が起きるなんて知らない。
しかも今は、宮本茜は橘結衣のことなど知らない。連絡先だってない。
昨夜、宮本茜の兄である宮本景太から電話があった。あの男はほとんど黙ったまま切ったが、番号だけは残っている。
宮本景太に連絡して、宮本茜に「エレベーターに乗るな」と伝えてもらう――そういう手もある。
だが、そんなことを言えば宮本景太は「頭がおかしいのか」と罵って終わりだろう。
それでも橘結衣は、見て見ぬふりができなかった。
もし宮本茜が前の人生と同じようにまた閉じ込められたら。今回は自分がそばにいない。あの臆病者が、本当に怯え死にでもしたらどうする。
——
運転手が車を出し、橘結衣は空気を読んで助手席に座った。後部座席は、仲睦まじい兄妹のために空けておく。
橘由樹は橘結衣が橘晴美と席を取り合わないのを見ると、鼻で笑った。
「分かってんじゃねえか」
橘結衣は口元を引きつらせただけで、返事はしない。
車が動き出す。
窓の外の景色が流れていくのを眺めながら、橘結衣はすでに段取りを組んでいた。
宮本茜がいる階のエレベーター前で待ち伏せする。わざと――いや、「うっかり」――コーヒーを服にこぼして、謝りながら引き止める。とにかく宮本茜をエレベーターに乗せなければいい。
ほどなくして、デパートの駐車場に着いた。
「人と約束してるから。二人で勝手に見て回って」
橘結衣は車を降り、振り返りもせず兄妹に言い放つ。
橘由樹は呆気に取られた。
その場に立ち尽くし、橘結衣の冷たい背中を見送って眉をひそめる。
こんなに都合のいい買い物の機会なのに、橘結衣はあっさり消えた。
しかも「約束」? 京清市に来たばかりのはずだ。誰がわざわざ会うんだ?
なぜか胸の奥がざらついた。
——
6号エレベーターの前。
入口に立てられた「エレベーター点検中」の札を見て、橘結衣は眉を寄せた。
止まっている?
なら、心配していた事故は起きない。
でも、前の人生では確かに――違う。こんなはずじゃなかった。
誰かが前倒しで点検に入れたのだろう、と橘結衣は自分に言い聞かせる。しばらくその場をうろついたあと、隣の5号エレベーターに乗り込んだ。
中には誰もいない。
このデパートは世紀デパート。宮本グループの持ち物でもある。橘結衣がいるのは新開発のC棟で、まだテナントも入っていない。乗ったエレベーターは南第2ゲート側。南第2ゲートは長らく閉鎖されていて、さっき十分以上待っても人に会わなかったのも、そのせいだ。
前の人生では、ミルクティーを買いに行って迷ってしまい、たまたまここに来ただけだった。
ピッ、と電子音。
表示が跳ねて「-2」。
橘結衣が降りた瞬間、横の4号エレベーターの扉も開いた。
マスクをした男が二人。左右から支えるようにして、半分気を失った少女を引きずり出してくる。
一目で、橘結衣の目が見開かれた。
「……宮本茜?」
声を聞いた男たちが同時に動きを止める。ここに人がいるとは思わなかったのだろう。
そのうちの一人が目つきを凶悪に変え、手にした鉄パイプを振り上げた。橘結衣の額めがけて叩きつけるように――。
「チッ、見られたなら仕方ねえ。恨むなよ!」
